誇りと自覚

代表であることの自覚とか誇りとか重圧とか喜びとか責任感とか、そういうものをすべて抱えながら世界の精鋭達と競い合うものではないのか。ワールドカップに出場するだけで満足しているようなところはなかったのだろうか。負けるべくして負けたと思う。話題のなくなったマスコミは「戦犯さがし」に躍起になるだろうが(ああ、嫌だ嫌だ)、私はジーコが気の毒でならない。もっと意識の高い選手の揃った国なら、きっとよい結果を生み出したはずだ。なぜなら「ジーコが我々の監督である」という一点だけで、知名度のない監督(たとえばトルシエ)に率いられるよりも高く強い自覚が生み出されてしかるべきだからだ。「神様の指導力」を問う声もあるが、そもそも国を代表するレベルでいまさら指導を乞うようではどうにもならないだろう。彼らに欠けていたのは技術や体力ではないと思う。彼らに必要なものは自らを律するための想像力である。人はそれを誇りとか自覚と呼ぶ。