パレルモ、パレルモ

IMG_2321いきなり巨大なブロック塀が倒れ*1、轟音が響き渡る。赤い土が降り、水がまかれ、ゴミが散乱する。多言語の飛び交う象徴的かつ暗喩的な空間は、さながら世界の縮図である*2
私たちの信じる文明社会の何たるかが、ピナ・バウシュのフィルターを通して、形象化される。一つ一つの行為は感情の揺らぎを表現し、それらは極めて抽象的でありながら具象的でもあるという両義性を持つ。観客はもやもやと沸き上がる感情を抱え、それの意味するものを考えることになる。不快感にせよ、滑稽感にせよ、我々の臓腑をえぐるかのごとき身体表現を、単なるおかしげなパフォーマンスと見るのは早計であろう。
たとえばスパゲティに拘泥する女。握りしめたパスタの束を「これは私のもの」と連呼しながら執着する姿は、モノに支配された文明人*3を強烈に戯画化したものとして、おかしさの果てに哀しみを感じさせる。いや、その哀しみはただちに自分自身の馬鹿げた物欲まみれの日常生活そのものに向けられることになるであろう*4
たとえばポートレイト写真を撮らせる女。見知らぬ他者には慇懃無礼、親しい者には徹底的に高圧的なその姿は、自己愛を貫き、自分の存在以外にはまったく関心の持てない現代人の姿が浮き彫りにされているとおぼしい。興奮する女と沈黙する男の間には完全なるコミュニケーション不全が横たわる。
目の前に展開する場面は極めて限定的なものでしかないのに、それがいつしか普遍的な価値や意味を帯びて、凶暴な相貌を見せる。ブラック・ユーモアやナンセンスな演技をただ笑ってすますことももちろんできるだろう。しかし、その笑いの果てには「生きることこそ滑稽」という笑えない事実のあることを忘れてはならないと思われる。もちろんそれは私の受け取り方であって、他の人がどう考えるかは与り知らない。
ピナ・バウシュやヴッパタール舞踏団のなんたるかをまったく知りもせず、あえて予備知識も持たず、素のままで鑑賞したのであるが、期待を大きく上回る愉悦感をもたらしてくれた。第1部で「俺様の世界」を堪能していた赤いガウンの男が気になって仕方がない。テアトロ・ジーリオ・ショウワで鑑賞。

*1:初演の1989年はベルリンの壁が崩壊した年

*2:近年のオペラが極めて抽象的な現代劇風の演出を指向していることを思い出した。

*3:そんなものがあるのかどうかは別にして

*4:その後,女のパスタを破壊し続ける男(=他者の生活を脅かす者だろう)も登場する