おと な り

morio01012009-06-13

人妻である空蝉の寝所に忍び込んだ光源氏は、薄暗い室内で音だけを頼りにして姿の見えない相手のことを探ろうとする。源氏物語空蝉巻のことである。本文では聴覚推量の助動詞「なり」を多用し、耳の感覚に導かれながら女に接近していく光源氏をスリリングに描き出している。読む者も光源氏の耳と同化し、音だけの世界に没入することになる。音に喚起された想像力によって生み出される仮想現実は、視覚のみに頼ったリアルな現実よりもよほど生々しい。けだし音は雄弁である。
熊澤尚人監督の新作「おと な り*1」も音が鍵となる映画である。三十代の男女が隣室の住人のたてる生活音から相手のことを気にし始める。そうした何かが始まる前の不確実不定型な恋心を音を基軸にして描こうとしている。キャッチコピーである「初めて好きになったのは、あなたが生きている音でした」はこの映画の本質をよく言い表していると思う。劇中歌として何度も繰り返される「風をあつめて」も二人の淡い恋心、形のない何かを集めようとする感情をよく象徴していた。
麻生久美子岡田准一ともに、押しつけがましさのないさっぱりした演技でとても感じがよかった。ただ物語の運びにややテレビドラマ的脚色の強い部分があって、その場面では鼻白む思いがした。とりわけコンビニ店員の麻生に対する悪辣な仕打ちは必然性がまったく感じられず、この映画の小さくない瑕になっている。熊澤監督のこれまでの作品*2でもその種の強引な運び、演出が見られたから、もうしかたのないことかもしれない。他では大阪の遠慮のない女を演じた谷村美月が好演している。最初「藤原紀香がなんて若作りして!?」と勘違いしたのは内緒。ワーナーマイカルシネマズ茨木で鑑賞。