青山七恵『ひとり日和』

「文藝春秋」2007年3月号に掲載されている芥川賞の選評をまとめてみた。
  ピクチャ 1
青山七恵、圧倒的。「私には、いささか退屈」とした山田詠美、「しかし何かが足りない」とした池澤夏樹の二人以外、ほぼ全員が好意的に読み、受賞作として推薦している。
ひとり日和母親が中国に留学することになったのを機に、二十歳のフリーターが遠縁の七十一歳の女性の家に居候することになる。春から始まる一年間が描かれ、「わたし」が「浄水器を売ったりレンタルする会社」に就職してその家を出るところで幕となる。この間、七十一歳はダンス教室で親しくなった男性と老いらくの恋に励み、母親は向こうで子持ちの男性と結婚話が持ち上がり、二十歳の「わたし」はなぜだか二人の恋人に去られてしまう。
「動じない自分」を育てるための盗癖を持つ「わたし」の、何ごとによらず、頑張らなさかげんと斜に構えたようなものの見方がおもしろい。それに合わせたかのごとき軽みのある文章も好ましく思われる。

冬が終わったらいきなり夏が来ればよい。花見がどうだとか、ふきのとうや菜の花や新たまねぎがおいしい、なんて聞くと、浮かれるなと怒鳴りたくなる。自分はそんなものには踊らされない、と無意味に力んでしまう。

とか、

彼のほうでゲームがひと段落すると、わたしたちはセックスをする。技巧に走らない、若々しいやつだ。三回に一回ほど、わたしは拒む。

とか、

やはり、あのじいさんと恋をしているらしい。(中略)
「誰も見やしないのに、よくそんな気合入れるね」「いいじゃない、きれいにしたって」「うん。吟子さんはきれいですよ」「そう……」
ときどき、自分の意地の悪さとかひがみっぽさに自らひいてしまう。故意にキャミソールやホットパンツ姿でうろつき、ぴんとはった肌を見せびらかしてみるが、優越感もあまり感じない。吟子さんが努力すればするほど、なぜかわたしは白けてしまう。きれいになっていくのを全精力をかけて阻止したい気分だ。

距離感の正しい文章という感じがする。ユーモラスで飾らず気取らずおもねるところがない。
また、いつも部屋の窓から眺める駅のホーム(第三者が行き交う場所=社会・世界)が、「わたし」の心情に重なるようにたびたび登場するのだが、これまたするすると絵が浮かんでくるスケッチのような描写である。閉塞感や孤独感、虚無感を味わいながらも、生きることに対して猶予の時間を許された者のみが醸し出す切迫感のなさが、心象風景として正確に立ち上がっている。そうした「わたし」を相対化する存在として決定された人生を生きる老女を配することもうまいなと思わされた。巧みでありながらあざとさがない。
急ぎ足に展開するわかりやすい感動ドラマではなく、なんとなく揺蕩う気分そのものをたっぷり味わえた。次作も読んでみたい。