フェラーリ・ラブ
フェラーリを駆るキミ・ライコネンが大逆転でチャンピオンになったので、少しだけ跳ね馬の思い出話。
ニキ・ラウダが初めてチャンピオンを獲得した頃*1から数えると、もう四半世紀どころの騒ぎではなく、それだけ長くF1を見てきたのか*2と感慨深く思われる。当時はテレビ中継などまったくなく、F1のことを知るにはレース専門誌を見るしかなかった。あとはタミヤから出ていたF1のプラモデルを作る。これが当時の日本のF1好きの正しいあり方だった。私もなけなしの小遣いをはたいて雑誌やプラモデルを買い集めたものである*3。
爾来、ずっとフェラーリを応援し続けてきた*4。とりわけ1977年シーズンの終盤からラウダに代わってステアリングを握り、1982年にゾルダーで早すぎる死を迎えるまで、フェラーリ一筋*5を貫いたジル・ビルヌーブを今でも史上最高のF1レーサーとして崇めている*6。どんなマシンに乗せられても、常に限界を越えるような走りを披露する。勝利ではなく勝負に命を賭けたジルはわずかに6勝しかできなかったのであるが、「伝説」として語られるにはそれで十分である。
ジルを失ったあとのフェラーリは中の上くらいの地位に甘んじ、ドライバーズタイトルやコンストラクターズタイトルとは無縁の存在だった。何年かごとにお家騒動を繰り返してはスタッフやドライバーが入れ替わり、ありていにいえば箸にも棒にもかからない、ひと頃の阪神タイガースのような存在であったとでも言えばいいであろうか*7。こんな「憎みきれないろくでなし*8」のフェラーリではあるが、たとえ勝てなくても鮮やかなイタリアンレッドのマシンを走らせてくれるだけで、ファン*9は満足していたとおぼしい。レガツォーニ・ロイテマン・シェクター・アルヌー・タンベイ・アルボレート・ベルガー・アレジ……。こうして見ると、ドライバーもやれやれな、でも憎めないラインナップだ。
そのフェラーリが真の暗黒期を迎えたのは1996年。このどうしようもなく暗い時期は11年間も続き、私は大好きなフェラーリをまったく応援できなくなった。1997年、ジルの息子のジャック・ビルヌーブ*10が、この「諸悪の根源」を打ち破ってワールドチャンピオンになった時には、快哉を叫んだものである。あのヘレス・サーキットのドライサック・コーナーでの「悪のたくらみ*11」は、今でもはっきりと脳裏に焼き付いている。かつてハッキネンやヒルに対して成功した「特攻*12」が無様に失敗した瞬間である。それから数えてももう10年……。「悪の帝王」は世紀末から新世紀にかけて、我が世の春を謳歌していたようだが、史上最年少でチャンピオンとなったスペインの若者*13に玉座を追われ、めでたくも昨年限りで引退をした。そしてフェラーリがわが手に返ってきた*14。
昨晩のブラジル・グランプリの生中継*15を食い入るように見つめながら、昔のように「ああ、フェラーリ、格好いい」などとうっとりし、手に汗を握っていたのである。表彰式でスタッフが肩を組んでイタリア国歌を絶叫していたのがたまらなく嬉しかった。フェラーリ万歳。
オチはなし。
*1:1975年
*2:歳を取ったとも言う
*3:子供の小遣いにはなかなか厳しいものがあった
*4:ちなみに「サーキットの狼」ではロータス・ヨーロッパでもなく、ランボルギーニ・カウンタックでもなく、ポルシェ・ターボでもなく、フェラーリ・ディノを愛していた
*5:エンツォ・フェラーリが最も愛したドライバーであるとも伝えられる
*6:偏愛
*7:ファンがやたら熱狂的なところもそっくり
*8:ウイングカーの時代に幅広な水平対向エンジンにしがみついたり、極悪なまでの馬力を発生するターボエンジンをへなへなのシャシーに押し込んだり、空を飛ぶのかというようなダブルウイングをつけたり、もうめちゃくちゃである。
*11:http://www.youtube.com/watch?v=V8eCCkZZZZM&mode=related&search=
*12:ライバルのマシンにぶつけて止めてしまえば、自分がチャンピオンになれる
*14:大袈裟です
*15:稀に見るものすごいレース