品川で米田知子展

morio01012008-10-03

写真は視覚に依存し現前性を己の内に抱え込む。つまり見えているものがすべてである。そういう芸術として我々は写真を認識しているとおぼしい。ところが、米田知子の写真はこうした写真一般の性質から少し逸れたところに存在意義を見出しているようである。
米田の写真は何気なく撮られたスナップのように見える。たとえば今回の個展のメインビジュアルになっている「シーン」という作品は、淡い色彩が積み重なる空と河の後景の中央に、静かに歩を進める小舟が配されている。まさに静謐ということばをそのまま絵にしたような牧歌的な風景である。ところが、これのサブタイトルが「中国から北朝鮮を臨む国境の川、丹東」であることを知ったとたん、この風景が歴史的にも政治的にも極めて重い「あるもの」を写していることに衝撃を受けることになる。
写真の向こう側から次々と立ち現れる「見えていない固有名詞」の数々。ノルマンディ、ヒトラーゾルゲ、スターリン満州サラエボベイルート、ソンムそしてサイパン……。かつてそこで何があったのか、誰が何をしたのか、考えないわけにはいかない。
あるいはタイトルや説明がないと米田の写真は真価を発揮しないのかもしれない。目の前の風景にどのような過去や記憶が封じ込められているのか、鑑賞者はそれらを必ずしも知っているわけではないからである。いや、むしろ何も知らないと言った方がよいであろう。記念碑のようなわかりやすいランドマークのない、しかしながら、消えるはずのない巨大な爪痕を隠している風景。「米田知子の写真」というラベルによって、我々はただ写真を写真として見ることをもはや許されない、厄介で幸せな軛から逃れられなくなったのである。
  米田知子展「終わりは始まり」 原美術館*1 11月30日まで
個展に比して、米田名義の写真集は極端に少ない。今回の写真展の図録はこれまでの活動を網羅*2するものであり、貴重な一書であろう。