松井冬子の痛い絵

松井冬子 一 MATSUI FUYUKO I腹を裂き胎児のいる子宮を見せつけている女性、うつろな表情で口から内臓*1を垂れ流す女性、何かから懸命に逃げようとするものの犬や鳥に襲われてその身を喰い破られる女性、皮を剥ぎ取られた鶏を手に持つ下半身のない女性,内臓を衣服のように身に纏い、謎めいた微笑みを浮かべる女性……。
日本画家の松井冬子はおどろおどろしい幽霊とかグロテスクな死体の絵を描く作家なのだと思っていた。ところが、そうではないらしい。対象を「もの」として描くのではなく、それらが提示する「感情」そのものを描いているのだと。「痛みが美に変わる時 画家・松井冬子の世界」(NHK)を見て吃驚し、あわてて松井の画集をものしてじっと眺めた。

例えば女性に対してルサンチマンを持っている、深いレイプ願望を持った男性に対して、あえて自分で腹を割いて子宮を見せられたら、彼らはどうなんだろうと思いますね。じゃあこうだったらいかがですか? っていう。(「美術手帖」2008年1月)

目を背けたくなるほどのショッキングな表象によって、生物としての女性であることを誇らしげに具象化する。一見、犯罪の被害者的な図像は、実は女性性の強さや優位性、さらにはアイデンティティそのものを相手に誇示する途方もない積極性を描き出している。絵の向こう側とか行間とか内面とか、そういう部分への回りくどい解釈を排除し、これ以上ないほどの直接的な女性らしさを見せつけているのである。そのように松井の絵を見始めると、ホラーやファンタジーではなく、はっきり知覚される痛みや恐れを伴うリアリズムを感じることになる。
社会学者の上野千鶴子は松井の絵を評して「超絶技巧自傷系アート」などと呼び、彼女の受けた暴力被害によるトラウマが性暴力によってもたらされたものだと読み解く。その是非はともかくとして、松井自身も「トラウマ性自傷系解離性被虐的ナルシシズム症候群」と意識するものについて、その言わんとするところを考えてみるのは、ディスコミュニケーションや自己乖離、あるいは過剰なる自意識にまみれる現代人のありようを反芻するためにも必要な作業ではないだろうか。
禍々しさを漂わせる松井の絵に対する好悪の感情は当然あるだろう。しかし、この絵によって波立たされる心の揺らぎは好き嫌いではすまされないと思う。
公式サイト http://matsuifuyuko.com/
日本画家・松井冬子 ナルシシズムと向き合う
絵筆 感情伝える体の一部 松井冬子

*1:ここにも胎児のいる子宮が描かれている