富士山の写真

俗界富士写真にむやみに言葉を貼り付ける作家の作品は好きではない。藤原新也は、それゆえ敬して遠ざけている。しかし、藤原の写真集で唯一気になるものがあった。『俗界富士』(新潮社)である。
誰もが知るような名所には「こう撮ればこう写る」という鉄則のようなものがあるとおぼしい。そこでは経験則という名の「拘束具」がカメラを手にする人を支配し続ける。そうして、絵葉書やカレンダーで見るような、綺麗だけれど記憶に残らないような写真が大量生産されるのである。富士山などはその種の典型的な被写体であろう。
しかし、藤原のこの写真集では「世俗の中の富士山」を写すことをテーマにし、名所でも美景でもないありふれた風景の中の富士山を捉えようとしている。つまり誰もが知るいつもの富士山である。ここには「富士山はこう撮るのだ」という縛りはいっさいなく、それゆえ一回的で印象深い写真となっている。富士山を撮ることについての深い思索の跡もうかがえる。タイトルの「俗界」+「富士」、まさに言い得て妙である。
富士百景 白籏史朗 The Best Selectionもちろん芸の極みにまで達した富士山写真を軽視するわけではない。たとえば富士山写真家として名高い白籏史郎の『富士百景 白籏史朗 The Best Selection』(山と渓谷社)を眺めていると、何十年も富士山という対象を執拗に撮り続ける姿勢と経験に対して、もうどうあがいても敵わないと思わされる。
季節、場所、時間、構図など、何もかも計算され尽くして、富士山という被写体を最高の条件で撮影することが方程式のようにできあがっているのだろう。世に蔓延する「富士山写真ハウツー本」は白籏らの経験が存分に生かされていると思われる。新しいものを生み出すというおもしろみには欠けるけれど、写真が裾野の広い産業、趣味として生き残るためには必要なことであろう。
ただ白籏の富士山写真は藤原のそれとは対極にあるということ、それだけは確かである。
『俗界富士』は出版社のサイトで検索しても出てこない。すでに絶版になっているようである。たまたま売れ残っていたものを見つけて手に入れることができた。僥倖。