あふれ出る言葉の渦と日常

三月の5日間またしても演劇舞踊に詳しい知人に教えてもらったもので愉快な時間を過ごす。
岡田利規が主宰する演劇カンパニーとして設立されたチェルフィッチュは、「自分本位という意味の英単語セルフィッシュが、明晰に発語されぬまま幼児語化した造語であり、現代の日本、特に東京の社会と文化の特性を現したユニット名*1」であるらしい。この名の意図するところを正確に理解しているわけではなく、漠然としたものしか思い描くことができないのであるが、さらに同じ文章の中に記述されている「日常的所作を誇張しているような/していないようなだらだらとしてノイジーな身体性を持つようになる」のくだりは、はっきりそうだと思う。
「三月の5日間*2」「フリータイム」の2本を続けて観た。
締まりのない妙な動きを繰り返す人々が、いずれも要領を得ない、軽い苛立ちすら覚えるような正確性を欠く台詞をだらだらと続けていく。「ですけど」で長々と繋いでいく台詞は、いったい何が言いたいのか、さっぱりわからない。最初から核心を突くことを放棄しているかのような同じ台詞が、何度も何度も別の人間によって繰り返される。話の角度を変える「ていうか」や比喩的に説明する「みたいな」を連続する言説をいくら積み上げたところで、中心に至ることはない。そもそもことばによって本質を暴くなどということはどうでもいいのだという宣言のようにすら感じられる。ただ上っ面の報告があるのみ。
芥川龍之介の「藪の中」を思い出す。同じ出来事でも人によって見え方が違うという不条理を描いたものだ。しかし、チェルフィッチュの提示するのは、しょせん誰が見ても同じようにしか語れないものの中で人は生き続けているのだという、芥川とはまるで正反対の世界観なのではないか。本質などないがらんどうの世界を皆が同じように見続ける日常、シュールで夢のない話ではあるが、案外そうかもしれない。だからこそ時に立ち現れる神話が異様なまでに力を持つのだろう。
知的な興奮を掻き立てられた。

*1:公式サイトのプロフィール

*2:三月の5日間 http://chelfitsch.net/works/fivedays.html#more