わたしたちは無傷な別人であるのか?

morio01012010-02-21

チェルフィッチュ*1の新作公演「わたしたちは無傷な別人であるのか?」を横浜で観てきた。STスポット横浜*2という客席数50ほどの小劇場に足を踏み入れると、すでに演劇特有の濃密な気配が立ちこめている。期待感はいや増すばかり。
舞台は2009年8月最後の週末である。「政権交代」を掲げた某政党が日本の政治史に残る大きな勝利を収めた、あの選挙直前のことである。しかし、それは確かな意味を持つ時空間とはなりえず、単に他より少しだけわかりやすいラベルの付いた日々でしかない。そしてその特別なようで特別でないありふれた日常を過ごす人々が舞台の上を行き来する。
けだし、個としての人間が重要なのではなく、等価交換可能なパーツとしての人間がそこここで同じような生活を営んでいる、そしてこの舞台ではたまたま「幸せな男」と呼ばれる種類の人間の生活の一部を描いてみせたということなのだろう。観客が目撃するのは、まさに「彼の姿をした私」「あいつの姿をしたおまえ」である。次々と入れ替わる役柄と俳優の関係がそれを強く示唆する。しかし、彼が私の感情を共感覚的に持っている保証はどこにもない。逆もまたしかり。同じ対象にアンビバレントなものを見るのは世の常である。

たとえばわたしたちの時代の気分が不安に満ちたものであることに思いを馳せるとき、そうした不安を共有していない人たちもいるかもしれない(というか確実にいるんだけど)ということを、できるだけ絶えず心に留めておくこと。そして、わたしたちが感じる不安を共有していないのは、一体誰なのか? ということにも同じくらい思いを馳せてみる。たとえばあなただって、そうなのかもしれない。つまり、すべてのわたしたちがそうである可能性があるのだ。(公式サイトより)

あたかも滑らかなグラデーションを描くかのように微妙にずれながら変化していく台詞の、そのわずかな差異を個性とか思想とか存在意義と呼ぶことを許してもらえるのだろうか。主宰者の岡田利規は「演劇というのは、舞台上の行為を通して観客の中に生み出されるなにか」のことであると言う。そうだとすれば、したり顔で語り続ける私はまんまと岡田の策略に引っかかったことになるだろう。妄言多謝。
5月の新作公演にも行くことにした。