斑鳩町のアイドル

仏像なんて古臭いだけの遺物と思っているうちはどれがどれでもどうでもいい。さすがに東大寺盧舎那仏みたいに規格外の大きさを持っているとか、阿修羅のように愁いを帯びた表情とタラバガニのような腕があれば、うん、確かに違うねと言えるだろう。でもその他大勢はその他大勢でしかない。それが少しでも気になる仏像ができてくると、もはや一体として同じであるとは思えなくなり、次から次へと偏愛を捧げる対象が現れるようになる。こうなると定期的にそこに通わないではいられなくなる。
よく晴れた秋の日、斑鳩町へ赴く。行く先はもちろん法隆寺である。ちょうど秋の特別公開の期間であり、悪魔の微笑み*1を持つ救世観音を拝むことができる。しかも前回の春の公開時よりLED照明によって見えやすくなっているというではないか。行かねばなるまい。
絶好の観光シーズンを迎えて、団体やら修学旅行やら遠足やら、広い境内は人だらけである。ところが、多くの人は足早に「お宝」の前を通り過ぎるだけで、一瞥だにくれない。もったいないと思うものの、以前の自分もそうだったと思い直す。
まずは金堂の釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊を念入りに拝む。ここもLEDが入ってずいぶん見やすくなった。講堂の薬師如来に挨拶をしてから、大宝蔵院へ。最初に出迎えてくれるのが夢違観音である。先の東京での仏像展ではトリを務めた大物も、ここでは露払いのような位置である。なにしろ法隆寺にはエース級の国宝がゴロゴロしてますからね。玉虫厨子や橘夫人厨子、数多の仏像をじっくり味わってから、お目当ての百済観音の前でしばし佇む。心から美しいと思うものと時を過ごす愉悦を味わう。
夢殿の救世観音も確かに見やすくなっていた。以前は目をこらしてもよくわからなかった妖しい表情がきちんと見える。全身を覆う金箔の保存状態の良好なこともわかる。金網にしがみついて熱視線を送り続けたのだった。きっと救世観音と同じような気味の悪い微笑みを浮かべていたことだろう。
続けて東隣にある中宮寺へも参る。和辻哲郎亀井勝一郎会津八一らが絶賛したここの菩薩半跏像が大好きなのだ。法隆寺でゆっくりしすぎて閉門まで40分ほどしかない。その40分をすべて菩薩の前で過ごす。まったくもって信心深くはないのに、すっかり魂を抜かれてしまった。あの漆黒の肌を撫でまわしたい。新しく作られた菩薩の写真集を買い込んで、帰路についた。

写真 1 写真 2
写真 3 写真 4

*1:勝手に命名